タンゴの生い立ち  その3

タンゴの生まれた酒場というのは、市内のあちこちに有る、最も低級な店でした。
そこに、集まっていたのは、社会のはじっこで、生きていた人達…港の労働者、運送屋(牛車に乗っていた。)家畜の売買人、ヤクザなどで、それらも、定職となっていた訳では、有りません。

このように、タンゴの生まれた環境は、犯罪や売春と深く結びついていましたから、一般の庶民とは
全く、関係の無いところであり、普通にタンゴと云う言葉を口にするのさえ、タブーとなっていました。

又、最初期のタンゴは、音楽としては、恐ろしく幼稚で、いい加減なもので、ヤクザのダンスを
景気づけるものにすぎませんでした。

タンゴを聴くなどとは、論外で、タンゴは踊るものでした。当時のタンゴが、いかに下品で、卑猥かは
作られたタンゴで分かります。

例えば、「ラ、カラ、デ、ラ、ルナ」 今でも、演奏される古典タンゴですが、初演は、1901年
女将マリア、ラ、バスカ(高級サロンとなっていますが…)の店で…しかし、元のタイトルは、
訳すと、「売女のあそこ」他にも、今でも演奏される「ラ、クラバダ」これが「差し込まれた女」

更に、楽譜で残っている最古のタンゴと云われるのが、「バルトーロ」これは、歌入りで
「バルトーロは、穴が一つしかないフルートを吹く…」という、卑猥な歌詞…日本で云うと春歌でしょうか…

今まで、優雅なタンゴを聴いていた人には、幻滅ものですが、これは、紛れも無く、事実です。
後年、フランシスコ、カナロが、1925年にパリに渡り、演奏活動をしました。全員が、
ガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)姿で、「ラ、クンパルシータ」を連日連夜演奏して、
タンゴブームが沸き起こり、当時の一流社交界の、サロンでタンゴが踊られました。

そのブームに付いて、当時のアルゼンチン大使が、「タンゴは、皆さんがサロンで踊るような音楽では
有りません」と云ったエピソードがあります。本国では、場末の限られた地域で娼婦が、
客相手に踊っていたダンスですから…

このアルバムから1曲ご紹介致します。

演奏者 JULIO DE CARO フリオ、デ、カロ

曲目  MALA PINTA

読み  マラ、ピンタ

録音  1928年

「タンゴも、又、音楽で有る」と主張した、デ、カロの処女作(1918年)です。これを聴くと、踊りの
伴奏音楽では無く,明らかに聴かせようとする意図が感じられます。この時代、このような
感覚のタンゴを作った、フリオ、デ、カロ、偉大なタンゴ人と、云わざるを得ません。




お断り  静止画で音楽を流す、「みんふぉと」が10/31で、サービス停止との事で、この曲は
再生不可です。